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柔道を創った男・嘉納治五郎
2009/12/03 23:59

歴史秘話ヒストリア
(2009年9月30日放送 NHK)
『最初はひ弱なインテリだった 柔道を創った男・嘉納治五郎』





嘉納治五郎の母の教え
「人として生まれてきた以上、他の人のために尽くすことを忘れてはなりませんよ。」







「嘉納治五郎18歳、柔術修業時代」
明治時代、新たな武道“柔道”を創った男、嘉納治五郎。
体育会系バリバリの猛者だったかと思いきや、東京大学に通う、線の細いインテリ青年だった。
いじめられていた治五郎は強くなりたいという一念で、日本古来からあった柔術を習い始める。


しかし柔術に入門しても、師匠は「技は投げられて覚えろ」というばかり、この非合理的なやり方になっとくできません。

力学的な研究
嘉納治五郎はインテリなりのやり方で柔術を追求していきます。
理論的に分析し、技のシステムを解明していきます。
技をかけるとき、重心をどこにおきどう体をつかってるのかを、模型をつかい、運動力学的に解明していきました。
さらに整骨の解説書なども読み、技が人間の体に与える影響なども分析しました。

様々な競技の研究
様々な流派の秘伝の書や、他の競技も参考にしました。相撲や、当時日本にはなかったレスリングまで研究しました。

精神の修行
はだしで小石の敷き詰められた道を歩くという、技の習得にはおよそ理論的でないことまでやりました。
治五郎は理屈ばかりこねるただのインテリ青年ではありませんでした。

毎日のキツイ稽古と夜遅くまで続く柔術の研究

治五郎をささえていたのは「なにくそ」という思いでした。
つらいときにはこの言葉を常に思い出して乗り越えました。



研究から1年。
相手の力に逆らわず、上手く利用して、のちに「肩車」といわれる大技で、師匠を投げ飛ばしました。

小さくてひ弱な自分でも投げ飛ばせる。治五郎が導き出した理論が実践された瞬間でした。

さらに治五郎は心の変化にも気付いていました。
「癇癪持ちだった性格が、柔術を習っていくことで、精神状態も次第に落ち着き、自分を自制する力がとても強くなった。柔術には人を高める力がある」
(『柔術家としての私の生涯』より)

柔術が自分を高めてくれることに気付いた治五郎は、
さらに自分を高めるためには、相手と共に高め合うことが不可欠だと思うようになります。


そこで治五郎は、柔術を危険が伴う格闘技から、誰もが取り組めるものに作り変える決心をしました。



物事を達成する上で重要なのは「合理性を尊ぶ」
技を修練する過程で最も有効な方法、合理性水準の高い方法を掴むことが重要。


<柔道の語源>
合理的なものを構築したことで、誰もが学べ、次の人にも教えることができる。
それは共に高め合っていく一つの「道」になる。
嘉納治五郎は、この新しい柔術を、柔(やわら)の道、「柔道」と名づけました。






明治15年(1882年)治五郎23歳
東京上野の永昌寺に最初の道場を開きます。
道を教えていくという思いをこめ、「講道館」と名づけました。

柔道に興味を持ってもらうため、段位制も取り入れました。

警視庁との対校試合で、弟子が勝利したことで、大きく躍進します。
そこで活躍したのが西郷四郎。
小説、姿三四郎のモデルになりました。




治五郎は教育者として人を育てることにも力を入れ始めました。
そこには幼い頃の母の教えがありました。

裕福な家庭に育った治五郎。
そこには身分に関係なく、近所の子供が集まってきていました。
おやつの時間。治五郎がおやつをもらう順番はいつも最後。ときには残っていないことさえ。
母はいつも言っていました。
「人として生まれてきた以上、他の人のために尽くすことを忘れてはなりませんよ。」





明治5年(1872年)学制が公布され、全国に小中学校が作られました。
しかし経済的な理由で通えない子供もたくさんいました。

治五郎はそういった子供達を無償で受け入れ、下宿させ、柔道と学問を教えました。

子供たちの生活費は、得意の英語を活かし、洋書の翻訳で稼ぎました。


講道館をこのまま続けていくため、安定した収入を得るために、学習院の教授となります。

学習院では明治以前の封建的身分意識が残っていました。
その姿はかつての殿様そのもの。
生徒達は家柄が格下だとして教師達をあなどっていました。

治五郎は、この風潮を変えることから始めます。
荷物は自分で持たせ、礼儀をしらない生徒はしかりつけました。
さらに真の教育をするためには机の上の学問だけでは不十分だと考えていました。

「人間は知、徳、体の三つの釣り合いが取れていなくてはならない。
いかに知力、体力が優れていても、道徳をわきまえていなければ、知力、体力はかえって害にさえなる。」


そこで柔道を授業に取り入れました。
自分自身を高め、さらに共に高めあうようになってほしいという思いからでした。

治五郎がそうであったように、柔道を通して、生徒達の心は変わっていきました。






明治26年(1893年)治五郎34歳
教員の養成を目的とした高等師範学校の校長に任命。

治五郎の訓等を受けた教師達の手により、柔道とその理念は日本中に広がっていきました。

明治31年には柔道は全国の旧制中学で授業に取り入れられました。



「なにくそっ、なにくそっという気持ちを持ち続ければ、どんなときでも、どんなことでも乗り越えていけるものだ。」




治五郎の教え子たちは日本の未来を動かす人物達が名を連ねます。
第32代内閣総理大臣 廣田弘毅
東急グループ創始者 五島慶太
夏目漱石
など。

五島慶太は、後にこう語っています。
「最初から最後まで『なにくそっ』の一点張りで、他のことは何も説かない。
しかし、今でも頭に残り、一番役に立ったのは、この『なにくそっ』だった。
これさえ忘れなければ、どんな困難にぶつかっても、やってゆけるという信念が生じた。」

(五島慶太「事業をいかす人」より)



「なにくそっ」という精神をもって皆で共に高めあう。
柔道も教育もそれを道として教え伝えていくことが大切である。」




柔道整復師という国家資格も治五郎が国に働きかけできたものです。
柔道家たちは、柔道を教えるだけではなかなか食べていけませんでした。
柔道を極めるために、仕事の道も用意してやりたいという思いからでした。



柔道はやがて外国にも伝わっていきます。







近代オリンピックが始まりました。

創始者ピエール・ド・クーベルタン
「オリンピックの理想は、相互理解を通し人間を作ることにある。勝つことではなく参加する事が重要である。」

オリンピックのシンボルマークの5つの輪は、世界の大陸を表し、世界の共存を願う意思がこめられています。



明治42年(1909年)
オリンピックが始まって13年後。
治五郎のもとに、クーベルタンの伝言を言付かったフランス大使が訪れます。
「柔道を作ったあなたの力でオリンピックをもりあげてほしい。そして日本も競技に参加してほしい」
オリンピックの理念に共感した治五郎は、アジア初の国際オリンピック委員になります。


クーベルタンの理念
スポーツを通し国際理解の輪が広がり、平和な社会を作り出すのに貢献する

治五郎の理念
スポーツあるいは武道を中心とした教育をもって社会を変革していく






明治45年(1912年)
第5回オリンピック・ストックホルム大会
日本からの参加は陸上競技の2名。

このとき治五郎は思いました。
いつしか日本でもオリンピックを開催したいと。





しかし日本は世界から急速に世界から距離をおきはじめます。
満州事変をへて、国際連盟から脱退。


昭和8年(1993年)治五郎74歳
そんな事態を憂えた治五郎は、日本へのオリンピックの承知活動へと動き出します。

しかし欧米主体の世界情勢で、アジアの日本で開催することは不利でした。
さらに国際社会に背を向ける日本はふさわしいかどうか、意見はわれていました。


遠く険しい道のり。
しかし治五郎は決してあきらめませんでした。
「列国の委員を日本に同意せしむることが出来るかどうかは、用意に断言することは出来ぬ。
しかし出来やすいことをするよりも、困難なことに当たるほうが、精神も緊張し、愉快も感ずる。

柔道を学ぶ日本人は、お互いを高めあっていこうという意識が強い。とアピールします。

3年で15カ国をまわり日本での開催をアピールします。




昭和11年(1936年)
IOC総会のスピーチで治五郎はうったえました
「アジアは国力の小さな国が多く、ヨーロッパに選手を送ることさえ困難です。しかし日本で開催すれば、アジアの国々は参加しやすくなります。また、欧米の巨大な国力をもってすれば、アジアで行っても参加はできるはずです。崇高な理念を持つオリンピックは欧米だけのものではありません。真に世界の文化を目指すのであれば、日本で開催すべきであります。」

そして投票により、次回開催地に東京が選ばれました。


その後もオリンピック開催のために治五郎は海外を忙しく飛び回りました。



昭和13年(1938年)4月23日
オリンピック開催を2年後に控えたその日。
バンクーバー(カナダ)での打ち合わせを終えた治五郎は、その帰国の途、太平洋上で突如体調を崩した治五郎は、肺炎のため亡くなりました。

嘉納治五郎 死去 享年79






その後、戦争に突き進むために、日本政府はオリンピック開催権を返上。

治五郎が命をかけて誘致した日本でのオリンピックは、それから23年も待たなければなりませんでした。


昭和39年 東京オリンピック
このときから正式種目になった柔道
そのときの無差別級の決勝
『神永昭夫 VS アントン・ヘーシンク』
試合終了間際、ヘーシンクが押さえ込みで優勝しました。
そのとき、ヘーシンクの仲間が喜んで駆け寄ろうとしました。
しかしヘーシンクはなんども手を振りもどれもどれと仲間を制止しました。
「柔道は勝ち負けではなく、相手と共に高め合うもの」
治五郎の精神はしっかりと世界に届いていました。








現在。
柔道家・古賀稔彦さんは子供達に柔道を教えています。
「柔道を通して社会に貢献できる人間育成をしていく必要がある。ただたんに強けりゃいいんだ、勝てればいいだということだけではなくて。柔道の根本的な基本という、心を養っていく。そういうことで嘉納先生もいろんな分野で柔道を知ってもらい、伝えていきたいという気持ちになったんじゃないかと思います。」

柔道を通し共に高めあっていくことの重要さ。
その思いは一筋の「道」となり、新しい世代へと受け継がれていっています。









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参考文献
嘉納治五郎大系 第1巻〜第14巻』講道館
『嘉納治五郎師範に学ぶ』村田直樹(日本武道館)
『写真図説 柔道百年の歴史』講談社
『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』大滝忠夫(新人物往来社)
『嘉納治五郎の教育と思想』長谷川純三(明治書院)
配役:嘉納治五郎 役:青年期…松蔵宏明 高年期…藤井昇

カテゴリ:心のテレビ レビュー

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