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経済学という視点から戦争を無くす方法 (池上彰)

池上彰の現代史講義~歴史を知ればニュースがわかる~
(2011年10月2日放送 BSジャパン(毎週日・月夜9時放送))

大学での講義が放送される番組です。
バラエティではなくて、放送大学っぽい感じです。


経済という観点から、戦争を無くし、平和を築くためにはどうしたら良いかということを話されてたので、その部分をレビューさせていただきます。






学生から池上彰さんへの質問
「対立や紛争を少しでも無くす為に、私達日本人が出来る事は何ですか?」



池上彰さんの応え
「それをまさに君たちに考えてもらいたいというのが私の狙いであって、
こうすればいいだよという答えは言わない方がいいと思うわけ。

それは君達が考える事。
ただしそうはいっても、考えるためのヒントを与えてあげるとするならば、

フィリピンの大統領がこっそり日本にやってきて、
成田空港で、反政府ゲリラのトップと会談をしていた、
その場所を日本が用意してあげたわけだよね。
つまり、フィリピン国内だと、反政府ゲリラと大統領が会うなんて事は出来ないわけ、
戦争をしているわけだから、安心できないから、
日本だとその場所を作ってあげるわけだよね。
両方とも安心して日本にやってくる事が出来るわけ。
日本がちゃんと警備してあげてるわけだから、それによって少しでも和平に進むかもしれない。
国としては例えばそういうことができる。

あるいは、私達個人であれば、
世界のいろんなところで日本人の若者達がボランティアで活動してるんだ、
で、それぞれの国が少しでも豊かになるように色んなお手伝いをしてる。

人間って不思議なものでね、いろんな対立で内戦・戦争を起こすでしょう。
で戦争を起こしてみんな酷い目に合うよね。
でもなんとか一度和平が成立して、平和になると、
じゃぁと言って世界中からお金が入ってくるのね。
その国を発展させる事によって儲けようと考える人達がいて、お金がどっと入ってくる。
それによって突然ビルが建ち、いろんなお店ができ、
みんながみるみる豊かになるのを一度見るとね、
あ、平和になると豊かになるだ。ってことを知ってしまうとね、みんな後戻りしないんだよね。
こんな豊かになるんだったらもっとがんばろうよ。
もう戦争がおきないようにしようよとなって、
戦争が再び起こることの抑止力になるんだよね。

だからそのためにも、なんていうかな、みんなね、失うものが何にも無い状態だとね、
これとっても怖い事なの。
例えばね、
イスラエルとパレスチナの争い事ってあるよね。
パレスチナで例えばイスラエル軍によって
家族が殺されてしまった、
子供が殺されてしまった、
たった一人残されちゃった。
もう自分が守るものがない。
ってなると、じゃぁ爆弾テロで死んでしまおうかっていう絶望的な気分にもなるんだ。
ところが家族がいて、あるいは自分の土地が与えられて、少しずつ働けば豊かになってくるとね。
これ以上の事やろうという気が起きなくなるの。
それが大事なんだよね。
失うものが何にもないという人がいっぱいいると、とっても危険なんだ。危ないんだ。

戦争なんてやったらこれを失っちゃうんだ。そんなの嫌だよね。
とみんなが思っていれば、それが戦争の抑止力になる。ってことなんだよね。

ということことはさ、
つまりそういう国を少しでも豊かにすることによってそういう事が出来ていくわけでしょ。
じゃぁ、豊かにするにはどうしたらいいのか、
それがまさに経済学で考える事なんだよ。
そのために実は経済学って役に立つ。っていうことなんだよね。

単に勉強するだけじゃなくて、それによって、
世界を少しでも平和にするためにはどうしたらいいんだろうか。
みんなが豊かになるためにはどうしたらいいんだろうか。
自分は何をできるんだろうか。
それを考える。
あるいは結論を見出す。
一つのきっかけが、実は経済学を勉強する事だと思う。
それも一つの目的、あるいは手段になりえるんだということを知ってほしいんだよね。」





平和へ
タグ:紛争を無くすやり方、世界を平和にする方法、未来を良くする経済学、人を幸せにする経済学、対立を無くすやり方、生徒からの質問に答える、動画レビュー
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ハンセン病患者、心に響く言葉 (長崎県美術館作品展)

今日は長崎県美術館に用事があったので、ついでにいろいろと見て回っていると、とても興味が惹かれる展示があっていました。




『ハンセン病療養所 長崎県出身入所者の作品展』
2011年6月28日(火)~7月3日(日)
長崎県美術館(県民ギャラリーA)

hansenbyou1.jpg hansenbyou2.jpg



展示されていた文章で、心に残った2作品をここに載せておきます。
(写真撮影&掲載、許可していただきました。ありがとうございます)
画像をクリックすると拡大できます。

hansenbyou3.jpg hansenbyou4.jpg







自分は情けないことに今までハンセン病とはどういうものかということをあまり知りませんでした。
ここに少しだけ書いておこうと思います。

-----------------------------------------------

ハンセン病は、細菌の感染症。感染力は極々弱く、普段の生活の中ではうつる事は無い。
実際何十年も看病した方々で、発症した方はゼロ。

ハンセン病は、昔は不治の病だったが、今は簡単に治す事ができる。
治療が遅れると、手足の変形など後遺症が残る。

日本での新規感染者はほぼ0人。

そして何が問題かというと、昔はものすごい差別の対象であったという事。
遺伝でうつるなどというデマもあり、結婚ももちろんできません(子どもを生まないなどの制約の元に結婚を許されたり)。
親類縁者全てが迫害されます。
ですので、患者は、肉親との縁を切るしかないという状況に追い込まれます。
死亡した事にされ、名前を変え、そして施設に入りました。
政府の政策で、ハンセン病患者をすべて隔離して、病気を根絶しようとする政策がとられました。
そのような間違った情報に基づく政策をとったことを、数年前やっと政府は過ちを認めました。

そしてその差別が今なお残っています。
つい最近、どこかのホテルが元ハンセン病患者の宿泊を拒否した事で問題になりました。

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ハンセン病で苦しんだ方々には、その分、これからの人生を幸せに過ごして欲しいと切に願います。


いまだに迫害を続ける人には、みんなで言ってやりましょう。
「間違ったふる~い情報をいまだに信じてるんですか!?恥をかく前にやめましょう。友達も無くしますよ~」

核兵器廃絶:人を憎むのは愚かしい事。本当に悪いのは戦争。

夜9時前のNHKの地方のニュースで、核兵器廃絶のために運動している方がとりあげられてました。

聞きながらメモしたわけではないので、うろ覚えの文章です。正確性を欠くかもしれませんが、ご了承下さい。
名前を忘れてしまったので、Aさんと書かせていただきます。申し訳ございません。







原爆で片足を酷く焼かれたAさん。


少年時代は、殴る蹴る、見世物にされるなどのイジメ・差別の日々でした。
学校に行くのがとても嫌だったそうです。

やがてAさんはアメリカ兵を憎むようになります。

お母さんに言ったそうです。
「アメリカ兵が憎い。石を投げてやりたい。」

お母さんは言いました。
「お前の足の火傷は一生治らない。
お前は一生人を憎み続けるのか?
本当に悪いのは戦争。」


いかに人を憎む事が愚かしい事か、分かる事ができたそうです。




大人になったAさん。
差別は依然続きます。
原爆の火傷のせいで、就職が決まりません。
結婚の約束をした人の両親に会うと、それが元で反対されます。
原爆症はうつると思われているのです。

Aさんは自殺をはかりました。

お母さんは言いました。
「お前が悪いのは片足だけ。
身体障害者の事をかんがえてみろ。五体が悪くても、頑張って生きている。
死にたい思いもあるかもしれない。
でも、地べたを這いずり回ってでも生きろ。」


この母の言葉がいまでも焼きついているそうです。





人が作り出した過ちは、
人の手で変えていく事ができるはず。


今は、核兵器廃絶のための運動で、世界中をかけまわっています。






平和へ

無料医療でミャンマーの人々を救う 思いやりと愛情の医師・吉岡秀人

世界を変える100人の日本人!JAPAN★ALLSTARS
(2010年9月17日放送 テレビ東京)
『1万人の子供の命を救う医師 吉岡秀人』

※番組の放送の流れそのままに文章にしてますので、情報的には年代が前後していたりして多少読みづらいかもしれませんが、ご了承下さい。



医師・吉岡秀人(45歳)

医者になることは目的ではなかった。手段だった。
日本人よりもっと困ってる人たちのために働きたいと思っていた。


ミャンマーで医療活動を始めて15年

これまで手術をし救った人は1万人以上

救いを求める人が後をたたない



治療をすれば助かる命。
平均月収3000円のこの国では、病院の門をたたくことさえ困難な人たちが大勢いる。
だから吉岡は無料で治療を行う。



ミャンマーの国土は日本のおよそ1.8倍。
人口6千万人
国民の平均寿命は54歳(世界165位)
その理由のひとつは、収入に比べて医療費が高いことにある。


「大先生おはようございます」
『大先生』地元の人たちは尊敬の念をこめて吉岡をそう呼ぶ。

医療費が高いため命を落とす人が大勢いる。
吉岡はワッチェ慈善病院を拠点とし、そんな国のありかたに意義を唱えてきた。

18歳以下は無料

70あるベッドは手術を待つ患者で常にいっぱい。
病院の噂を聞きつけて、2日も3日もかけて尋ねてくる患者が後を絶えない。

6年前に国際医療ボランティア・ジャパンハートをたちあげ、医療活動をしてきた。
運営費は寄付金や支援金などでまかなっている。



20代ぐらいの女性。生まれつき頭蓋骨に穴があき、そこから小脳などがあふれ出てくる「脳瘤」という病におかされ、顔がふくれている。
子供のころに他の病院で診てもらったが、治らないといわれたそうだ。
しかしこの病は手術をすれば治る病。
手術するおことに決まった。
だがそれは2ヵ月後。
手術を待っている人がいっぱいなのだ。
それでも女性の顔はほころんだ。


この日の手術は13件
執刀医は吉岡ただ一人


手術室の隣ではもう次の患者が準備して待っている


手術室では日本では考えられないことも。
ハエなども普通に入ってくる。
停電もあたりまえだ。懐中電灯で対応する。

手術に使える道具ももちろん少ない。



吉岡の人柄
すごく謙虚
どうやったらこんなに思いやりや愛情をかけられるのかと思わせるほどの人




急患で運ばれてきた少女
ノーゼン・ライちゃん(11歳)
生まれつき腸に異常があり、幼いころに人工肛門をつける手術を行っていた。
だが治療費が払えないため、その後一度も病院には行っていない。
幾度も激しい腹痛に襲われ・・・吉岡を頼ってきた。

腸閉塞を起こしているが、手術をするには衰弱しすぎている。

体力を回復させるため、血管に直接チューブをさしブドウ糖を挿入した。

来るのがぎりぎりすぎる
なぜもっと早く来なかったのか・・・
やり場のない感情があふれてくる

容態が急変したのは深夜のことだった。
尿毒症を併発していた少女は、息を引き取った。



こんな死を吉岡は何度も目の当たりにしてきた。

そのたびに己を責める

「人間なんで必死になって必死になっても至らないところがあるんですけど、だからせめて自分にできることは何かということをいつも身につまされて考える。
もう12時間早かったら助かったかも知れないと思うんですけど、それを12時間早く気づくレベルが僕になかった。
だからそれは僕の責任」





「僕が今ここでこうやってるもっとも根本的な理由は、僕は体が弱くて、僕を家族が大切にしてくれたことです。今の彼らはかつての僕なんですよ。僕はかつての自分を、40年後に今治療している。」





テレビで見たアフリカの飢えた子供の姿に衝撃を受け、医者の道に。

大分大学医学部卒業。
小児外科医として日本の病院に勤めていた。

1995年はじめてミャンマーへ。
医師不足に悩む現状を目の当たりにする。

そして無報酬の医療活動を開始した。





4年前にあやまって熱湯を浴びてしまった少年。
ミャッ・ソーくん(8歳)
お金がなく治療をうけられなかった。
皮膚が癒着し、ケロイド状になっている
足の指先も失っている。

吉岡の手術が始まった。

手術は順調に進んでいたが・・・
突然麻酔がきれた。

少年に激痛が襲う。

実は、ミャンマーで入手できる麻酔薬の品質は安定していない。
効果の薄いものもあるという。

それでもどうにか手術を終えることができた。

日本ではぜったいに起こらないこと。
それをわかっていてスタッフが動かないといけない。




このとき吉岡は3日ほど食事を取っていないという。
「感性を研ぎ澄ませておきたいんですよ。
実はこの人、手術の前にこんな隠れてる問題があったんだとか、
それがわからないと人は死ぬんです。
それに気づきたい。」


宿舎にもどるのはいつも真夜中。

スタッフ全員30人ほど。小さな厩舎に寝泊りしている。

昔は吉岡の家族もこの小さな部屋に一緒に住んでいた。



岡山県倉敷市
支援金を募るため、久しぶりに帰ってきた。
二人の息子は日本に戻るたびに見違えるほど大きくなっている。
妻も小児科医。
子育てはまかせっきり。
妻:春菜さん(31歳)
「結婚する前からそうだったので。同じ職業だから共通する仕事も多くて。患者さんもよくなっていって。
本当にやりたいことをやるというのは、子供もそれを見てると思うので、お金じゃなくて、ほんとうにやろうと思うことを子供にもやってほしいなと思う。人生の先輩みたいな感じ」


家族がくれるエネルギー。
またファイトが沸いてきた。




できるかぎり多くの人を救いたい。
吉岡はミャンマーの僻地を回る訪問医療を行っていた。
さらに日本の医療従事者が病院をやめずに、短期でも海外で活躍できるようなシステム作りを目指している
医師が一人増えれば、救える命も確実に増える。





皮膚移植を受けた少年はすっかり元気になっていた。
彼の夢はバスの運転手になることだという。




吉岡にとって『命』とは
「人の命って面白くて、僕が助けた一人の子供から、また子供が生まれる。僕がここで倒れていなくなっても、僕によって助けられた人が100人いれば、そこから100の命が生まれる可能性があって、それが時間とともにもっと増える可能性がある。僕がここでやったことは決して無駄ではなくて、未来に向かって確かに繋がっていっている。」










番組の前半、ほぼ見逃しましたが、
マダガスカルの助産師シスター牧野のお話もすばらしかったです。




マダガスカルで6千人の命を取り上げた助産師
シスター牧野幸江(77歳)
「ここで貧しい子の助けをするということは、私は好きですよ。今でも。
好きなんですよ。要するに。赤ん坊が。ものすごく好きなんですよ。
赤ん坊を触っている限り生きがいを感じますね。」

手術器具や粉ミルクなど、無償でいただいたり、ボランティアでいただいたりしている。
そして念願の手術棟もできた。日本の支援者の一人の女性の方が費用をすべてだして下さった。








平和へボランティアへ
みなさんに幸せがありますように。

志賀あけ美 医療に苦しむモーリタニアへのボランティア

世界を変える100人の日本人!JAPAN☆ALLSTARS
(2010年9月10日放送 テレビ東京)



モーリタニアは北西アフリカに位置し国土の3/4が砂漠の国。


大きな地図で見る

近年、砂漠化が進み、不毛な土地を捨てた遊牧民が都会に流れ込んできた。
結果、食料や水が不足し、貧困層が増加した。

志賀さんは砂漠化を止めようと、10キロにも及ぶ砂を止める防護ネットを現地の人々と協力して張り巡らせた。
しかし防護ネットは砂に押しつぶされた。
しかしそれでもまた防護ネットを張った。
でもやはりダメだった。
それを繰り返して4年。さすがに自然の前では無力だと志賀さんは悟った。



モーリタニアは日本の国土の3倍ありながら、公立の病院はわずか13。

モーリタニアで4番目に大きな病院でも、建物はぼろぼろ、医療用品も全く不足しており、手袋でさえ洗って使いまわすしかありません。

志賀さんは活動を開始する。
日本でボランティアの医師をかきあつめ、製薬会社から薬ももらってきた。

しかし現地での移動手段がない。
砂漠化がすすみ、そこは道なき道。
ユニセフも手が届かない僻地となっていた。

そこで志賀さんはパリ・ダカールラリーのドライバーを起用。
(志賀さんはパリダカラリー主宰ASOの日本事務局代表)

協力してくれたのは金森立さん

おかげでたどり着けなかった場所でも医療ができるようになった。

これがモーリタニアでの医療の夜明けとなった。



志賀あけ美
「少なくとも私のかかわりあっている村、その人達が少し健康になって、少し豊かになってくらたらいいと思っています。」







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みなさんに幸せがありますように。

世界を変える100人の日本人!JAPAN☆ALLSTARS 2010/09/10 20:00~20:54 の放送内容
教科書には載ってない、そしてテストにも出ない…でも世界を変えちゃった偉大な日本の星達を発掘して、ご紹介、そして名鑑にしちゃうバラエティ番組!
各国の駐日大使が「国へ連れて帰りたい」と思うほど秀でた才能を持つ日本人を特集する。ペルー大使推薦の料理人、アフリカ・モーリタニア大使推薦の活動家、ブルガリア大使推薦の「日本初の女性代議士」が登場。また、外国人バックパッカーが見つけた、ガイドブックには載っていない日本のスグレ物を紹介する。彼らに驚きと感動で受け止められた日本の風物とは…?
出演 【MC】三宅裕司、三村マサカズ 【パネラー】筒井康隆、矢口真里、バナナマン 【ゲスト】安倍なつみ 【アシスタント】松丸友紀(テレビ東京アナウンサー)、繁田美貴(テレビ東京アナウンサー)、相内優香(テレビ東京アナウンサー)

「エイズはハグでは感染しない」 「でも、愛は違う」

テレビの前を通りかかったら、海外のCMが紹介されていて、偶然目にしました。


以下、CMの内容です。




『ハグ(抱擁)無料』
と書かれたプラカードを頭上に持って、道行く人々に、無料でハグしますと呼びかけている青年。

しかし誰も相手にしません。

それでも青年はめげません。

やがて徐々にハグを求める人々がでてきます。

おばあちゃん、おじいちゃん、から、小さな子供まで。

たくさんの人々がハグしてくれました。




そして画面が黒くなって、文字が出てきます。


「エイズはハグでは感染しない」


この文字が消えて、次の文字が出てきます。


「でも、愛は違う」


そして


「共に差別と闘おう」







「エイズはハグでは感染しない」
と出た時、「あ、なるほどエイズのCMか」と思いました。

そこで終わるのかと思いきや、その文字を「but」と否定して、
「愛は違う」
と持ってくるところがとても印象的でした。



病気を持っている人を忌み嫌うのも、れっきとした『差別』なんですよね。
白人・黒人などの人種差別は、明確な問題で、日本人はそういう差別意識はほとんど持っていないと思うのですが、病気に対する差別は、それが差別だとも気付かずに、差別している人もいるのではないでしょうか。
日本人は「差別はダメ!」というのがすりこまれていると思うので、『自分は差別をしてるんだ』と気付くだけで、良い方向に改善されていくのではないかなぁっと思います。




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タグ:エイズ撲滅運動、ピンクリボン運動、差別をなくそう、平和活動、ボランティア活動

利益はいらない。被災者を助けたい。カップラーメンの生みの親・安藤百福

世界を変える100人の日本人!JAPAN☆ALLSTARS (2010年3月5日放送 テレビ東京)

安藤 百福(あんどう ももふく)  インスタントラーメンの生みの親 “食”で被災者に手をさしのべる』

安藤百福著書


世界各国で販売され、年間1,000億食も食べられているというインスタントラーメン。
それを生み出した、日清食品創業者・安藤百福は、まさに、世界の食に革命をもたらした。
そして安藤は、災害に苦しむ人々を救うためにも生きた。
生誕100年記念SP






1945年終戦直後

焼け野原には闇市が建った。

冬のとある日。
やせこけた人達が、寒空のした、ぶるぶる震えながら、ラーメンの屋台に長い行列をつくっていた。

安藤は思った

一杯のラーメンのために、人はこんなにも努力をするのか

衣食住というが、食が無ければ、衣も住もあったものじゃない。

食という字は、「人」を「良」くすると書く。

やはり食が大事なんだ。
食で人々を救いたい。


保存ができ、誰もが手に入れやすく、簡単に出来て美味しい食べ物。
即席ラーメンができないだろうか?




安藤のインスタントラーメン開発が始まった。

度重なる試行錯誤・失敗の末、
油でメンを揚げ乾燥させる方法「瞬間油熱乾燥法」を思いついた。

そして世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」が発売された。

1958年発売当時
年間1300万食のヒットとなった。

ここで安藤は信じられない行動に出た。
本来なら独占するはずのその製法を公開したのである。


チキンラーメンを真似した粗悪品が出回った事もあり、
自らの利益を減らしてでも、少しでも多くの人に、この手軽で温かい食べ物を届けたいという思いがあった。

この特許の公開が、インスタントラーメンが世界に広がるきっかけとなった。





1971年
麺と容器を一体化させた「カップヌードル」発売。
アメリカでも爆発的に売れた。

その最大の特徴は、お湯さえあればいつでもどこでも食べられると言う事。
カップは、包装、調理器具、食器となった。

安藤は思った。
「これこそ究極の非常食だ。」

カップヌードルは災害などで苦しむ人々の力になれるはずだ。





安藤は、世界各地の災害などで苦しむ人々に、救援物資として、カップヌードルなどのインスタントラーメンを送った。

1980年 カンボジア難民救済の為に10万食
1991年 雲仙普賢岳火砕流被災地に1万食

そして1995年 阪神・淡路大震災

安藤の脳裏に、あの戦後の闇市の情景がよみがえった。
真冬の被災地。
思わずこの言葉が口をついた。
「食べ物はあるのか?」

大阪にある日清食品本社も被害を受けたが、最も重い被害を受けた神戸の事を思いやった。

在庫をかき集め、向上には増産を指示。
多くの社員を動員し、救援物資を次々に被災地に送りやった。

給湯設備付きキッチンカー「チキンラーメン号」も急行。
各地の公園や避難所で、被災した人々にラーメンを提供した。

温かいカップヌードルは、被災者の心をも温めてくれる存在だった。

とある被災者の方は
「カップヌードルは1月17日の朝、毎年食べてます。やはり自信を忘れないためです。一番よく食べたのがあれですので」

安藤が阪神・淡路大震災に送ったインスタントラーメンの数はのべ100万食にもなった。





その後も安藤が中心となって設立した世界ラーメン協会を通じて、世界各地の被災地へ支援を行った。

1999年 台湾大地震で7万5千食
2004年 スマトラ島沖地震で20万食
2005年 ハリケーン・カトリーナ被災地に5万3千食






2007年1月5日 安藤百福 永眠 (享年96)

その訃報は世界中を駆け巡り、アメリカのニューヨークタイムズは「ミスターヌードルに感謝」とその死を悼んだ。


「私は戦後の困窮の時代に食の大切さに目覚めた。
食が足りないと、争いが絶えない。
食が足りてこそ、人は心安らかになる。」


『食足世平』その想いが安藤を突き動かしていたに違いない。





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みなさんに幸せがありますように。

世界を変える100人の日本人!JAPAN☆ALLSTARS 2010/03/05 20:00~20:54 の放送内容
タイ国家警察で鑑識技術を指導している、元警視庁鑑識課のベテラン警部補が登場。スマトラ島沖地震の際に起きたインド洋大津波では、日本で培われた技術を活かして各国の鑑識チームを率いました。また、雨水をコントロール・有効利用して都市を洪水から救う“ドクター雨水"が登場。彼の開発した画期的なシステムとは?また、カップラーメンの生みの親である安藤百福や、被災地で活躍するデザイングッズを紹介します。
出演 【MC】三宅裕司、三村マサカズ 【パネラー】筒井康隆、矢口真里、バナナマン 【ゲスト】雛形あきこ 【アシスタント】松丸友紀(テレビ東京アナウンサー)、繁田美貴(テレビ東京アナウンサー)、相内優香(テレビ東京アナウンサー)

美智子さまと石井筆子を繋ぐ『天使のピアノ』

新春皇室SP2010愛子さまと悠仁さま…未来を担う子ども達へ美智子さま祈りの言葉
(2010年1月6日放送 TBS)
『響きあう”天使のピアノ”と美智子さま』





滝乃川学園(東京都国立市)
日本で最初の知的障害者施設(明治4年創設)

平成4年両陛下が御訪問。
そのときトランポリンで遊んでいた子供たちのそばに美智子様が近寄ると、子供がわーっと抱きつきました。
普通なら驚いてしまうところですが、まったく御気になさらず、御自分の子供を抱くような感じで、背中を優しく撫でながら御抱きになりました。

このご訪問で、美智子様は一人の女性の存在を知ります。





石井筆子(1861年~1944年)
長崎の名家に生まれ、その美貌と教養を持って「鹿鳴館の華」と謳われた筆子は、一転、滝乃川学園2代目園長になるのです。


学園の一室に、歴史をまとめた部屋があります。

筆子は結婚しており、子供が生まれました。

そのうち長女が知的障害児でした。
さらに二女と三女は幼くして亡くなられました。

悲しみの中で筆子は、長女が入園した滝乃川学園の、創立者・石井亮一の障害者教育に魅せられます。
筆子は反対を押し切り、学園に住み込み、園児達の世話を始めます。
後に筆子は石井に嫁ぎます。

当時の日本では、障害者への理解など無いに等しい状態でした。

そのころ日本では子供達への教育が義務化されましたが、知的障害者には教育しても効果がないからやらなくてもいいということになっていました。

当時の入園者にとって、この学園だけが心のよりどころでした。


しかしそこに火の手があがります。
大正9年・学園が火災に。
園児の火遊びが原因でした。

このときに逃げ遅れた園児を救うために、火の中に飛び込んだ筆子は怪我を負い、片足が不自由な身になります。


そして時代は軍靴の音が響きはじめる頃。

大東亜戦争の時に、食料が全部配給になりました。
やはり障害者の人達は一番後回しにされました。
多くの園児、三十数人が餓死しました。

戦争に何の寄与もしない学園は、その経営が難しくなります。


しかし学園を守りたい一心で、筆子は2代目学園長を務めることにします。(76歳)

83歳の生涯を閉じるまで、その身を尽くしました。



筆子の思いを記した和歌があります。

  いばら路を知りて
    ささげし身にしあれば
      いかで撓まん
        撓むべきかは

苦難の道を承知で捧げた身だから、
苦しいからと言ってどうして屈しようか。
屈することなど決して無い。












平成19年 くにたち郷土文化会館
『石井亮一・筆子夫妻の軌跡』
石井夫妻の功績を伝える企画展をご訪問された美智子様。

美智子様は筆子の写真をしばらく見つめたらっしゃいました。

美智子様と石井筆子。
その歩みは、ある楽器を通じて響きあうのです。






平成8年。
学園内で一台のピアノが見つかります。
ボロボロで弾ける状態ではありませんでした。

しかし鑑定の結果、
明治18年頃製造された日本最古級のピアノと認定。

学園では、貴重なピアノを遺したいと、専門家に修復を依頼します。

そして2年の歳月の末、それは甦りました。

アップライト式のピアノで、横浜にあったドイツ・ドーリング商会(J.C.DOERING)による明治18年製。
豪華な木彫に加えて、左右には蜀台、中央のガラスに天使の絵が焼き付けられている事から、「天使のピアノ」と呼ばれるようになります。

これは実は、石井筆子が愛用していたピアノでした。




平成14年 東京紀尾井ホール
"天使のピアノ"コンサート

甦った天使のピアノが奏でられた場に、美智子様も足を運ばれました。
使い込まれたピアノは持ち主の歴史をも響かせるといいます。




平成16年 聖マリア礼拝堂でのコンサート

天使のピアノを弾いたピアニスト・青柳いづみこさんは、美智子様からいくつも質問を受けました。




スタッフは、明治18年製のピアノはどう違うのか青柳さんに聞いてみました。
「音がぽわぽわぽわっと糸を引くように響き、温かい柔らかい優しい雰囲気が出てきて、ちょっと後光がさしてるみたい。」




青柳さんも、天使のピアノに並々ならぬ思いを抱く一人です。
実はお兄さんが生涯を持ち、滝乃川が学園で暮らしています。



美智子様はおっしゃったそうです。
「石井筆子さんは、すばらしい活躍をなさってきたけれども、やっと人の世に知られるようになったのは、とても嬉しいことですね。」



美智子様はこのピアノを弾いてみたいと願われました。



平成19年12月 聖三一礼拝堂
美智子様がピアノを弾かれる日がやってきました。

美智子様はお忍びで訪問。完全なプライベートです。

リハーサルはありません。

同席したのもごくわずかの人だけ。

美智子様にとってもピアノは、自らの病を乗り越えたり、家族の絆を深めたり、節目節目で支えになってくれた大切なもの。

曲は、筆子が園児達とよく歌ったという
『賛美歌 第433番』


青柳さんのお兄さんは、障害者ですが、音楽には敏感で、青柳さんがあまり出来の良くないコンサートをすると、顔に出るそうです。
そのお兄さんが、美智子様の演奏を聞いて、体中を震わせ感激していたそうです。

(美智子様の演奏技術が、トッププロの青柳さんよりも上手いはずはありませんので、青柳さんのお兄さんを感激させるほどの何かが、美智子様の音楽の中には秘められていたのでしょうね。そこに神様の奇跡があるように思えます。)

青柳さんは、美智子さんと重なって、筆子さんも一緒に弾いていらっしゃるんじゃないかと思ったそうです。


演奏を終えると、沢山の人が美智子様を囲みました。

一人一人と握手を交わした美智子様は、
「次の折には皆でこの曲を歌いましょう」
と笑顔で語られたそうです。







困難な子供たちのために、社交界を捨て、茨の道を歩んだ石井筆子。

弱い立場にいる全ての子供の母であろうとする美智子様。

根底に流れるのはどちらも大いなる愛

天使によく似合う言葉です。








困難な立場にある子供たちに、積極的に歩み寄る。
あたかもわが子のように接する美智子様。

美智子様は子供たちにどのように育って欲しいと願っているのでしょうか。

かつて、児童書に携わる人々への励ましとして、お話された言葉の中に、未来を担う子供達への願いが見て取れます。

「子ども達が自分の中にしっかりとした根を持つために
 子ども達が喜びと想像の強い翼を持つために
 子ども達が痛みを伴う愛を知るために
 そして、子ども達が人生の複雑さに耐え
 それぞれに与えられた人生を受け入れて生き
 やがて一人一人、私ども全てのふるさとであるこの地球で
 平和の道具となっていくために」


この言葉は、『橋をかける 子ども時代の読書の思い出 美智子』に収められています。

注:『道具』という語を使われたことで、一部で議論になりましたが、これはアッシジの聖フランシスコが「平和のための祈り」の中で語っている言葉「われをして平和の道具とならしめ給え」 つまり、「自分を平和のために役立つ者にして下さい」という祈りの言葉 を念頭に置かれたものです。日本では古くからこの中のインストラメントという英語が「道具」として訳されています。(『橋をかける 子ども時代の読書の思い出 美智子』より P124参照)

(このことからもわかるように、人を批判するには、自分にそれ相応の知識がなければなりません。自らの無知をまずは知りましょう。)







番組で紹介した大久保カメラマンのコレクションから平成のベストショットが写真集になりました。
『天皇皇后両陛下 ふれあいの日々』



美智子様が世界に感動を与えた二つの講演を収録。
『橋をかける 子ども時代の読書の思い出 美智子』






個人的に、皇后美智子様は大変に尊敬しているお方です。
『橋をかける』の本は、知人にもらい、今でも大切にしています。
よかったらみなさんも読んでみて下さい。







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みなさんに幸せがありますように

2010/01/06 19:55~21:48 の放送内容・動画・感想・レビュー・詳細情報
新春皇室SP2010愛子さまと悠仁さま…未来を担う子ども達へ皇后美智子さま祈りの言葉
ご一家大集合!こどもの国秘話▽前侍従長が語る両陛下のお心▽愛の記念日に…美智子さまブローチ秘話・麦のブローチ▽「響きあう」皇后さまと天子のピアノ・天使のピアノ画像

TBSワンステップ! 人の想いを手紙に込めろ! 他人が居る事のありがたさ

ワンステップ!(2009年12月6日、13日放送 TBS)
『放送大学新聞会学生が手紙を代筆』



高知県・北川村


慶應大学で、体育会の活動をスポーツ新聞にする新聞会の学生三人。
自分達の取材力や文章力などを使って、誰かの役にたてないか?
今回は、そんな彼らの“人の思いを文章にして届ける”ワンステップ!です。
過疎地でワンステップを踏み出した後編。





最後に出会った一人暮らしの女性。森さん。

森さんは50年前にご主人を亡くしました。
手紙を送りたい人を聞いても、森さんには誰もいませんでした・・・。



メンバー達は、森さんが大切にしている一本の木、その森さんの思い出を手紙にすることにしました。

森さんはとても喜んでくれました。



そして、別れの時。

メンバー達は、自分達が去った後、森さんがまた孤独な生活に戻ることを知っていました。
メンバーの心優しい男の子は、涙して、森さんとの別れを惜しみました。


森さんも

「あんたがたはここに来過ぎた。
来過ぎたから近くなりすぎた。

帰したくない 帰したくない
おりなさいよ

慣れっこになってしまったら
分かれるのがさびしい

嬉しかった。」





メンバー達のふるさとが、ここにまた一つ増えました。








孤独の辛さ
人の温かさ
他人がいることののありがたさ

私達は、周りに人がいる事が当たり前で、それがどんなにありがたいことか、考えることなんてありません・・・。

周りにいる人達に感謝して生きて行きたいですね。





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柔道を創った男・嘉納治五郎

歴史秘話ヒストリア
(2009年9月30日放送 NHK)
『最初はひ弱なインテリだった 柔道を創った男・嘉納治五郎』





嘉納治五郎の母の教え
「人として生まれてきた以上、他の人のために尽くすことを忘れてはなりませんよ。」







「嘉納治五郎18歳、柔術修業時代」
明治時代、新たな武道“柔道”を創った男、嘉納治五郎。
体育会系バリバリの猛者だったかと思いきや、東京大学に通う、線の細いインテリ青年だった。
いじめられていた治五郎は強くなりたいという一念で、日本古来からあった柔術を習い始める。


しかし柔術に入門しても、師匠は「技は投げられて覚えろ」というばかり、この非合理的なやり方になっとくできません。

力学的な研究
嘉納治五郎はインテリなりのやり方で柔術を追求していきます。
理論的に分析し、技のシステムを解明していきます。
技をかけるとき、重心をどこにおきどう体をつかってるのかを、模型をつかい、運動力学的に解明していきました。
さらに整骨の解説書なども読み、技が人間の体に与える影響なども分析しました。

様々な競技の研究
様々な流派の秘伝の書や、他の競技も参考にしました。相撲や、当時日本にはなかったレスリングまで研究しました。

精神の修行
はだしで小石の敷き詰められた道を歩くという、技の習得にはおよそ理論的でないことまでやりました。
治五郎は理屈ばかりこねるただのインテリ青年ではありませんでした。

毎日のキツイ稽古と夜遅くまで続く柔術の研究

治五郎をささえていたのは「なにくそ」という思いでした。
つらいときにはこの言葉を常に思い出して乗り越えました。



研究から1年。
相手の力に逆らわず、上手く利用して、のちに「肩車」といわれる大技で、師匠を投げ飛ばしました。

小さくてひ弱な自分でも投げ飛ばせる。治五郎が導き出した理論が実践された瞬間でした。

さらに治五郎は心の変化にも気付いていました。
「癇癪持ちだった性格が、柔術を習っていくことで、精神状態も次第に落ち着き、自分を自制する力がとても強くなった。柔術には人を高める力がある」
(『柔術家としての私の生涯』より)

柔術が自分を高めてくれることに気付いた治五郎は、
さらに自分を高めるためには、相手と共に高め合うことが不可欠だと思うようになります。


そこで治五郎は、柔術を危険が伴う格闘技から、誰もが取り組めるものに作り変える決心をしました。



物事を達成する上で重要なのは「合理性を尊ぶ」
技を修練する過程で最も有効な方法、合理性水準の高い方法を掴むことが重要。


<柔道の語源>
合理的なものを構築したことで、誰もが学べ、次の人にも教えることができる。
それは共に高め合っていく一つの「道」になる。
嘉納治五郎は、この新しい柔術を、柔(やわら)の道、「柔道」と名づけました。






明治15年(1882年)治五郎23歳
東京上野の永昌寺に最初の道場を開きます。
道を教えていくという思いをこめ、「講道館」と名づけました。

柔道に興味を持ってもらうため、段位制も取り入れました。

警視庁との対校試合で、弟子が勝利したことで、大きく躍進します。
そこで活躍したのが西郷四郎。
小説、姿三四郎のモデルになりました。




治五郎は教育者として人を育てることにも力を入れ始めました。
そこには幼い頃の母の教えがありました。

裕福な家庭に育った治五郎。
そこには身分に関係なく、近所の子供が集まってきていました。
おやつの時間。治五郎がおやつをもらう順番はいつも最後。ときには残っていないことさえ。
母はいつも言っていました。
「人として生まれてきた以上、他の人のために尽くすことを忘れてはなりませんよ。」





明治5年(1872年)学制が公布され、全国に小中学校が作られました。
しかし経済的な理由で通えない子供もたくさんいました。

治五郎はそういった子供達を無償で受け入れ、下宿させ、柔道と学問を教えました。

子供たちの生活費は、得意の英語を活かし、洋書の翻訳で稼ぎました。


講道館をこのまま続けていくため、安定した収入を得るために、学習院の教授となります。

学習院では明治以前の封建的身分意識が残っていました。
その姿はかつての殿様そのもの。
生徒達は家柄が格下だとして教師達をあなどっていました。

治五郎は、この風潮を変えることから始めます。
荷物は自分で持たせ、礼儀をしらない生徒はしかりつけました。
さらに真の教育をするためには机の上の学問だけでは不十分だと考えていました。

「人間は知、徳、体の三つの釣り合いが取れていなくてはならない。
いかに知力、体力が優れていても、道徳をわきまえていなければ、知力、体力はかえって害にさえなる。」


そこで柔道を授業に取り入れました。
自分自身を高め、さらに共に高めあうようになってほしいという思いからでした。

治五郎がそうであったように、柔道を通して、生徒達の心は変わっていきました。






明治26年(1893年)治五郎34歳
教員の養成を目的とした高等師範学校の校長に任命。

治五郎の訓等を受けた教師達の手により、柔道とその理念は日本中に広がっていきました。

明治31年には柔道は全国の旧制中学で授業に取り入れられました。



「なにくそっ、なにくそっという気持ちを持ち続ければ、どんなときでも、どんなことでも乗り越えていけるものだ。」




治五郎の教え子たちは日本の未来を動かす人物達が名を連ねます。
第32代内閣総理大臣 廣田弘毅
東急グループ創始者 五島慶太
夏目漱石
など。

五島慶太は、後にこう語っています。
「最初から最後まで『なにくそっ』の一点張りで、他のことは何も説かない。
しかし、今でも頭に残り、一番役に立ったのは、この『なにくそっ』だった。
これさえ忘れなければ、どんな困難にぶつかっても、やってゆけるという信念が生じた。」

(五島慶太「事業をいかす人」より)



「なにくそっ」という精神をもって皆で共に高めあう。
柔道も教育もそれを道として教え伝えていくことが大切である。」




柔道整復師という国家資格も治五郎が国に働きかけできたものです。
柔道家たちは、柔道を教えるだけではなかなか食べていけませんでした。
柔道を極めるために、仕事の道も用意してやりたいという思いからでした。



柔道はやがて外国にも伝わっていきます。







近代オリンピックが始まりました。

創始者ピエール・ド・クーベルタン
「オリンピックの理想は、相互理解を通し人間を作ることにある。勝つことではなく参加する事が重要である。」

オリンピックのシンボルマークの5つの輪は、世界の大陸を表し、世界の共存を願う意思がこめられています。



明治42年(1909年)
オリンピックが始まって13年後。
治五郎のもとに、クーベルタンの伝言を言付かったフランス大使が訪れます。
「柔道を作ったあなたの力でオリンピックをもりあげてほしい。そして日本も競技に参加してほしい」
オリンピックの理念に共感した治五郎は、アジア初の国際オリンピック委員になります。


クーベルタンの理念
スポーツを通し国際理解の輪が広がり、平和な社会を作り出すのに貢献する

治五郎の理念
スポーツあるいは武道を中心とした教育をもって社会を変革していく






明治45年(1912年)
第5回オリンピック・ストックホルム大会
日本からの参加は陸上競技の2名。

このとき治五郎は思いました。
いつしか日本でもオリンピックを開催したいと。





しかし日本は世界から急速に世界から距離をおきはじめます。
満州事変をへて、国際連盟から脱退。


昭和8年(1993年)治五郎74歳
そんな事態を憂えた治五郎は、日本へのオリンピックの承知活動へと動き出します。

しかし欧米主体の世界情勢で、アジアの日本で開催することは不利でした。
さらに国際社会に背を向ける日本はふさわしいかどうか、意見はわれていました。


遠く険しい道のり。
しかし治五郎は決してあきらめませんでした。
「列国の委員を日本に同意せしむることが出来るかどうかは、用意に断言することは出来ぬ。
しかし出来やすいことをするよりも、困難なことに当たるほうが、精神も緊張し、愉快も感ずる。

柔道を学ぶ日本人は、お互いを高めあっていこうという意識が強い。とアピールします。

3年で15カ国をまわり日本での開催をアピールします。




昭和11年(1936年)
IOC総会のスピーチで治五郎はうったえました
「アジアは国力の小さな国が多く、ヨーロッパに選手を送ることさえ困難です。しかし日本で開催すれば、アジアの国々は参加しやすくなります。また、欧米の巨大な国力をもってすれば、アジアで行っても参加はできるはずです。崇高な理念を持つオリンピックは欧米だけのものではありません。真に世界の文化を目指すのであれば、日本で開催すべきであります。」

そして投票により、次回開催地に東京が選ばれました。


その後もオリンピック開催のために治五郎は海外を忙しく飛び回りました。



昭和13年(1938年)4月23日
オリンピック開催を2年後に控えたその日。
バンクーバー(カナダ)での打ち合わせを終えた治五郎は、その帰国の途、太平洋上で突如体調を崩した治五郎は、肺炎のため亡くなりました。

嘉納治五郎 死去 享年79






その後、戦争に突き進むために、日本政府はオリンピック開催権を返上。

治五郎が命をかけて誘致した日本でのオリンピックは、それから23年も待たなければなりませんでした。


昭和39年 東京オリンピック
このときから正式種目になった柔道
そのときの無差別級の決勝
『神永昭夫 VS アントン・ヘーシンク』
試合終了間際、ヘーシンクが押さえ込みで優勝しました。
そのとき、ヘーシンクの仲間が喜んで駆け寄ろうとしました。
しかしヘーシンクはなんども手を振りもどれもどれと仲間を制止しました。
「柔道は勝ち負けではなく、相手と共に高め合うもの」
治五郎の精神はしっかりと世界に届いていました。








現在。
柔道家・古賀稔彦さんは子供達に柔道を教えています。
「柔道を通して社会に貢献できる人間育成をしていく必要がある。ただたんに強けりゃいいんだ、勝てればいいだということだけではなくて。柔道の根本的な基本という、心を養っていく。そういうことで嘉納先生もいろんな分野で柔道を知ってもらい、伝えていきたいという気持ちになったんじゃないかと思います。」

柔道を通し共に高めあっていくことの重要さ。
その思いは一筋の「道」となり、新しい世代へと受け継がれていっています。









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参考文献
嘉納治五郎大系 第1巻~第14巻』講道館
『嘉納治五郎師範に学ぶ』村田直樹(日本武道館)
『写真図説 柔道百年の歴史』講談社
『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』大滝忠夫(新人物往来社)
『嘉納治五郎の教育と思想』長谷川純三(明治書院)
配役:嘉納治五郎 役:青年期…松蔵宏明 高年期…藤井昇

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