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己の如く、他人を愛した人 永井隆 博士

「世界を変える100人の日本人!JAPAN☆ALLSTARS」(テレビ東京 金曜午後8時)で、永井隆博士のことがとりあげられました。
これをきっかけに、たくさんの人に永井博士のことを知ってもらえたらと思います。
テレビでは永井博士の人生の一部しか取り上げられなかったので、長くなりますが、この記事を読んでいただけたらと思います。

『広報ながさき』と『長崎市永井隆記念館の資料』を元に書きます。




<如己愛人>
自分を愛すること、上の人を愛し敬うこと、下の人を愛し導くこと。
(中略)
愛とは難しいことではない。たとえば、ボールを持たぬので、しょんぼり懐手して校舎の板壁にすがり、ほかの友達の三角ベースを見ていたとき、その子は、どんな気持ちだったか?それを思い出して、自分たちがキャッチボールしているとき、ボールを持たぬ友が見ていたら、「おーい」と読んで仲間に入れてやる。それが愛の極意なのである。
(中略)
幼いころから小さな愛を実行するくせをつけておけば、大きくなってからも、何の惜しげもなく、困っている友のためには、生命を捨てることができるようになる。
(”人生のゴール「いとし子」”より抜粋)

『己を愛するが如く、隣人を愛せよ。』
自分を愛するが如く、他人を愛しましょう。






永井博士の人柄
・どこまでも命を大切にした
・周りの人への感謝を持ち続け、他人の恩に誠心誠意応えた
・どんな時も周囲の人を励まし続けた
・隣人愛(周りにいる人に対する優しさや思いやり)から平和がつくられると訴えた
・おおらかでいつも明るく楽しい人だった
・困難な時でも決してあきらめず、冷静に考え、果敢に行動した
・マイナスなことでも何とかしてプラスに変えようと考えた
・自分が決めたことは何があってもやり抜いた
・子供達の未来が明るくなるように願い続け、努力を惜しまなかった
・子供思いのやさしくて厳しい父親だった


20歳の時に初めて長崎を訪れた永井隆。
43歳で亡くなるまで、その短い人生を懸命に生き続けました。
永井博士の人生を振り返ります。



<医学への道>
明治41年2月3日、島根県松江市で生まれた永井隆。高校まで島根県内で過ごした彼は、医師だった父親の影響もあり、昭和3年に長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)へ入学し、長崎の地を踏みます。

昭和7年に大学を卒業。内科医を目指していましたが、中耳炎がもとで一時的に難聴となり、聴診器が使えない恐れがあったため、放射線医学への道へ進みます。その後、カトリック信者で下宿先の娘だった緑と結婚し、自らもカトリックの洗礼を受け、後に誠一、茅乃という二人の子どもを授かりました。

昭和12年、日中戦争で軍医として従軍した隆は、激戦の中、何度も死に直面しながら、多くの負傷者や現地住民の治療を、敵味方関係なく行い、現地の人たちから感謝と尊敬を集めました。

昭和15年に帰国すると、当時、日本中に広まっていた結核を撲滅するため、連日、100人以上ものレントゲンによる集団検診に追われます。太平洋戦争が始まると、レントゲンフィルムも少なくなったため、放射線を浴びる危険性が高い直接透視という方法で検査をするようになりました。隆は直接透視が人体に危険があることを分かっていながらも、医師として多くの命を救うために無理して検査を続けます。しかしこれが原因で後に、白血病を患ってしまいます。

慢性骨髄性白血病「余命あと3年」-そう言い渡されたのは昭和20年6月のことでした。



<原爆と医療活動>
昭和20年8月9日午前11時2分-長崎に原子爆弾が投下されました。大学の研究室でレントゲンフィルムを整理していた隆は、ものすごい爆風に吹き飛ばされました。

窓ガラスの破片で右のこめかみの動脈を切る大けがを負いましたが、すぐに無事だった同僚や看護師たちを集め、負傷者の応急手当を始めます。救護活動を続ける中、こめかみのけがによる出血でたびたび倒れましたが、意識が戻るとまた負傷者の治療を続けました。

被爆から3日目、救護活動が一段落して自宅へ戻ると、家の焼け跡から変わり果てた緑夫人が・・・。そばには愛用していたロザリオが熱線の威力を物語るように焼けただれて落ちていました。

その翌日、三ツ山に疎開していた子供たちと再開すると、そこに救護本部を置き救護活動を始めます。頭に包帯をまき、白血病に侵された体をつえで支えながら、朝早くから夜遅くまで山々に遭難していた負傷者を見て回りました。

このときの救護活動の様子は、「原子爆弾救護報告書」としてまとめられ、医療専門家による最も早い時期での被爆者救護の報告書として注目を集めました。



------------------------------------------
以下『ロザリオの鎖』(著:永井隆)より

私は研究室で長年取り組んでいた放射線の障害を受けて、白血病にかかってしまった。余命あと幾年も無いと診断された日、私は信頼している妻にすべてを打ち明けて、善後策を考えようと言った。そのとき妻は、ぎくりともせず聞いていた。

私の予期していたとおり妻がしっかりしているのでうれしかった。そんな運命はかねて妻も覚悟していたのである。

8月8日の朝、妻はいつものように、にこにこ笑いながら私の出勤を見送った。少し歩いてから、私はお弁当を忘れたのに気がついて家へ引き返した。そして思いがけなくも、玄関に泣き伏している妻を見たのであった。

それが別れだった。その夜は防空当番で教室に泊まった。あくる日、9日。原子爆弾は私たちの上で破裂した。私は傷ついた。ちらっと妻の顔が浮かんだ。私たちは患者の救護に忙しかった。5時間ののち、私は出血のため畑に倒れた。そのとき妻の死を覚悟した。というのは、妻がついに私の前に現れなかったからである。たとい深傷を負うていても、生命のある限りは、這ってでも必ず私の安否をたずねて来る女性であった。

3日目。学生の死傷者の処置も一応ついたので、夕方、私は家へ帰った。ただ一面の焼灰だった。私はすぐに見つけた。台所のあとに黒い塊を。・・・それは焼け尽くした中に残った骨盤と腰椎であった。そばに十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。

焼けバケツに妻を拾って入れた。まだぬくかった。私はそれを胸に抱いて墓へ行った。あたりの人はみな死に絶えて、夕日の照らす灰の上に同じような黒い骨が点々と見えていた。私の骨を近いうちに妻が抱いていく予定であったのに・・・運命はわからぬものだ。私の腕の中で、妻がかさかさと燐酸石灰の音を立てていた。私はそれを「ごめんね、ごめんね」と言ってるのだと聞いた。
------------------------------------------



<平和を祈って>
その後、原爆が人や植物、環境などに与える影響について調べたり、まちの復興を呼びかけたりしていた隆でしたが、病状は悪くなる一方で、ついに倒れ、起き上がれなくなってしまいました。

そんな中、隆は放射線医学の専門家として事実を記録するため、そして平和を訴えるために、本を書いていこうと決心します。

昭和23年には、仲間が建ててくれた畳2枚分の小さな家「如己堂」に移り住み、2人の子どもと生活しながら執筆活動を続けました。

「医師」として、「被爆者」として、「信仰者」として、「二人の子どもの優しい父親」として、寝たきりの状態で病と闘いながら、一文字一文字、気力を振り絞って書き上げた作品は6年で17点に上がります。なかには映画化されたり、外国語に翻訳されたりするものもあり、そのメッセージは多くの人の共感と感動を呼びました。

本の出版で得た多額の印税は、長崎が一日も早く復興することを願って、その大部分を教会や学校、病院の再建のために寄付したり、被爆して読むべき本も焼失してしまった浦上の子どもたちのために「うちらの本箱」という小さな図書室をつくったりすることに使いました。

どんなに苦しいときも平和を祈り、周りの人を気遣い・勇気づけ、長崎の復興を願って力を尽くしてきた永井隆。昭和26年5月1日午後9時50分。43歳という短い生涯を終えました。

余命3年と宣告されてから6年目のことでした。




【追記】

寝たきりになった永井博士。
高熱と全身の痛み、毛布の重みでさえ激痛が走る中、被爆の研究、世界平和のために向けて本の執筆、右手が書けなくなると左手で、腕に板をくくりつけてまで執筆しました。
やがてたくさんの人が博士のもとを訪れるようになります。ヘレン・ケラー女史、天皇陛下、教皇特使ギルロイ枢機卿などなど。
長崎市名誉市民、教皇からロザリオ、首相の表彰、天皇から銀杯一組、などさまざまな名誉もさずかりました。
そんな忙しい日々、睡眠時間もほとんどとれず、それでも平和に向けて執筆を続けました。





<母の死>
大学二年から三年に上がる春の休みに、母が脳溢血で急死した。私がまくらもとに駆けつけたときにはまだ息があって、じいっと私の顔を見つめたままこと切れた。その母の最期の目は、私の思想をすっかりひっくり返してしまった。私を生み、育て、私を愛しつづけた母が、別れにのぞんで無言で私を見つめたその目は、お母さんは死んでも霊魂は隆ちゃんのそばにいつまでもついてるよ、とたしかに言っていた。霊魂を否定していた私がその目を見たとき、何の疑いもなく母の霊魂はある、その霊魂は肉体を離れ去るが永遠に滅びないのだ、と直感した。
(”肉親”「ロザリオの鎖」収録より抜粋)





【永井隆博士からのメッセージ】

平和をことさらにこわそうとたくらむ人があるように見えますが、その人々を敵にまわして憎んではなりません。相手を憎む心が起こったら、もう自分も平和を願う権利を失ったものとなります。
(「如己堂随筆」より)


本当の平和をもたらすものは、ややこしい会議や思想ではなく、ごく単純な愛の力による。
(「いとし子」より)


原子戦争はちっとも美しいものじゃない、おもしろいものじゃない、もっともあっけない、もっともむごたらしい、もっとも徹底した完全破壊である。あとに残るは灰と骨ばかり・・・。心をうつ物語一つ無い!
(「花咲く丘」より)


この浦上盆地いっぱいの大墓穴は原子が掘ったのではない。私達自らの手で、軍艦マーチに合わせて掘った。私達の墓穴であった。
(「花咲く丘」より)


あの美しかった長崎を、こんな灰の丘に変えたのはだれか?・・・・・・私達だ。おろかな戦争を引き起こした私達自身なのだ。
(「花咲く丘」より)


「戦争はおろかなことだ! 戦争に勝ち負けもない。あるのは滅びだけである! 人間は戦争するために生まれたのではなかった!戦争はこりごりだ! 平和を! 永久平和を!」
この叫びを私は広く伝えたかった。
(「花咲く丘」より)


あの活気にあふれていた町を大火葬場にし、一面の墓原にしたのは、だれだ?・・・・・・私達だ。「剣をとるものは剣にて滅ぶ」との戒めを冷ややかに聞き流し、せっせと軍艦を作り、魚雷を作っていた私達市民なのだ。
(「花咲く丘」より)


お互いに許しあおう・・・お互いに不完全な人間だから
お互いに愛し合おう・・・お互いにさみしい人間だから
けんかにせよ、闘争にせよ、戦争にせよ、あとに残るのは後悔だけだ。
(「平和塔」より)


平和を祈る者は、一本の針をも隠し持っていてはならぬ。自分が・・・たとい、のっぴきならぬ破目に追い込まれたときの自衛のためであるにしても・・・武器をもっていては、もう平和を祈る資格はない。
(「平和塔」より)


闘争だの戦争だのという騒ぎは、おくびょう者がやるのである。
「愛」の人は、すなわち「勇」の人であり、勇の人は武装しない。武装しない人は戦わない。つまり「平和」の人である。
(「平和塔」より)


原子爆弾は長崎でおしまい!
ピリオッド!
平和は長崎から!
(「平和塔」より)


笑いを失った者は不幸だと言われている。泣くことのできぬ子はさらに不幸である。
(「ロザリオの鎖」より)


やがてこの浦上の荒野に、原子力を利用した新しい町ができるのだ。いや、市民がここにそれを造り上げるのだ。
(「花咲く丘」より)


この鐘も戦の間は鳴らすのを止められていた。戦が終わるとまた鳴り出した。今も鳴っている。平和であるから鳴っている。これは平和の鐘だ。
(「花咲く丘」より)





去年、長崎市永井隆記念館の館長であり、永井博士のお孫さん、永井徳三郎さんの講演を聴きに行きました。
その最後におっしゃった言葉が心に残っています。

「みなさんも現代の永井隆になって下さい」





長崎市永井隆記念館
長崎市上野町22番6号
公式HP

島根県雲南市永井隆記念館
雲南市三刀屋町三刀屋199

機会があれば訪れて見てください。





「世界を変える100人の日本人!JAPAN☆ALLSTARS」では、史上最悪の原発事故、チェルノブイリ原発事故についても触れられていました。

被災地に一番にかけつけたのは日本の医療チームでした。
放射能に汚染されたその場所に行くのは、もちろん大変危険を伴うものです。
しかし、医師たちは思ったそうです。
「永井博士ならどうするか?きっと博士ならこうするだろう」
博士の如己愛人の思想は、何十年もの時を越えて、しっかりと受け継がれていました。

そして博士が残した、放射線被爆の貴重な資料は、チェルノブイリの被災地での救護において、たいへん役にたったそうです。





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いつもありがとうございます。
みなさんに幸せがありますように☆
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++ コメント ++


  


感銘をうけました。

正直、今の私に欠けているものや自分がちっぽけに感じたりもしました。
今の私はマイナスのことが多くプラスに考える力さえ失いつつあります。
でも、こちらを拝見してまだまだ未熟者、もっと頑張らなければと思いました。

素敵な紹介ありがとうございました。


  お返事


博士の生き方、考え方からはたくさんの事を学ばせていただけますね。

読んでいただいてありがとうございます。
なんとなく反応が薄いので、ちょっとさびしいですね。
タイトルがちょっと重かったかな?
ってことでちょっと変更しようかと思います(^^)


  


私もとても感動しました。私は、中学生の頃に修学旅行で長崎を訪れ、如己堂へも行きました。その前から、永井博士について学習していました。本当に素晴らしいお方だな、と思います。私は看護師を目指しているので、永井博士を目標に頑張って行こう!とより一層思える事が出来ました。ありがとうございました。


  お返事


きいろさんのような方がいらっしゃるのかと思うと、なんだか未来に希望が持てますね!
きいろさんのように、永井博士の理念を真摯に受け止めて、心を正しく持ってくれることこそ、永井博士がほんとうに望んでることでしょうね。
きいろさんがそういうふうに思ってくださって、永井博士もきっと喜んでらっしゃいますよ~♪(^v^)
こちらこそありがとうございます!


  


お返事ありがとうございます(^^)
私はまだまだ未熟ですが、これから少しずつ成長していければいいかな、と思っています。そして、永井博士を目標に頑張りますね!
お返事、本当に嬉しかったです♪
ありがとうございました。


  お返事


こちらこそコメントありがとうございますですよ~♪
特にこの記事にコメントしてくださったことが、より嬉しいですね(^^)
お互い未熟なもの同士、がんばって行きましょー!

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